無題

 ブログの記事数が100を超えていて驚く。いまの形式で書くのはだいぶしっくりきているが、逆にいうと100記事も書いて、ようやくしっくりくるスタイルにたどり着くのであるから、何事も継続である。とはいってもこれも音楽同様、誰に頼まれたわけでもなし、続ける道理はなく、飽きたらやめたらいい類のものである。

 

 方向性が定まらず、しっくり来ていない段階での所業を残すべきか否か?みたいなことは最近よく考えてしまう。過去の習作や若気の至り的なアウトプットを、残すか、はたまた消してしまうか。大学デビューに成功したやつは、中高時代の陰鬱なSNSなんて消し去ったほうが調子が良さそうだが、過去に読んできたくだらない本を全て捨ててしまって、シュッとした本ばかりが並べられてる"見せ本棚"に対しては、どうしても顔をしかめてしまう。結局のところ、にわか、ハリボテはバレるというだけの話なのかもしれない。消すかどうかはさておき、古参者が過去の新参ムーブを恥じる必要はない。微分積分を学ぶ者の部屋に、掛け算九九のポスターが貼ったままになっているのは自然なことである。

 

 さらに、続ける道理のある、しなければならないことってなんなんだろうとも考える。仕事を辞めたところで、もはやたいした話にすらならないし、気合を入れて交わした約束(契約?)も、なんの意味もわからないまま反古にされてしまったいまとなっては、してはいけないことはあっても、マストな行為なんてないように思える。

 

 1年くらいはのんびり暮らせるだけの金はあるし、一旦仕事辞めてフラフラするか…とも思ったが、「冷静でないときに大きな決断はしないほうがいい」という有難いお言葉を頂き、結局サラリーマンのまま2018年を終える。元気になってきたようで実際はさっぱりダメであるが、それでもなんとかやっていかないといけない。そのためにも、なんの道理もないのに、飽きずに続けられることを、増やしていったほうがよさそうではある。

 

某日

 仕事終わりにトーフビーツ氏を呼び出し人生相談。段取りの悪い自分のせいで路上でスタバのコーヒーを啜ることになる幸先の良い滑り出し。

 瘴気にまみれたエピソードトークをひとしきり済ませた後は、漠然と音楽シーンというか、インターネットというかの話になる。

 後半、彼はしきりに「夢が広がりんぐ」という言葉を連呼していた。我々がかつてのインターネットに見た"夢が広がりんぐ性"はたしかに見えづらくなってきたが、負の側面が飛び出してき過ぎて相対的に引っ込んでみえるだけで、それ自体がなくなってしまったわけではない(と自分は考えてしまう)。そして、世間は意外とそこまで楽観的ではない。

 

某日

 仕事の合間に、カーシェアで借りたインプレッサで旧居と新居の間をひたすら往復する日々。文字通りほぼ抜け殻状態であった3DKの部屋であるが、引っ越し先の1Kに荷物を収めるのはなかなかに難儀であった。

 移動中、車内ではFMラジオから、当たり前のように友達の作った曲が流れる。ふと、自分が完全に外野になってしまったような気持ちに襲われる。

 自分はずっと音楽をしているつもりだが、可処分時間の分母そのものが減っているため、相対的にはめちゃくちゃスローペースな活動になっていることに気づく。1stアルバムを出したのは最近のような気持ちでいたが、もう2年も前の話である。

制作用のスペースとベッド以外は蛇足、みたいな部屋での生活をまたすることになるとは思わなかったが、他に特にしたいことがあるわけでもない。

 

某日

 新居の家具の配置を考える。長方形のスペースにたかだか2,3個しかない大型家具を置く組み合わせなんて対してあるはずもないのに、それがなかなかに決められない。なんとか最善と思われる配置を決定するも、仮にこの決定を人に委ねたら全くの違う配置になるのであろう。そしてその配置1つで景色は大きく変わる。

ちょうどネットでサンプル丸使い云々の話が盛り上がっていたが、16ステップのシーケ ンスに決められた音色のキックとスネアを置くだけでもそれはクリエイティブな行為である。

 

 退去時に「まだ若いんやから、負けずに頑張りや…」と意味不明な励ましを受け、比較的エモ目な別れを為した旧居の大家であるが、後日送付された現状回復の請求用紙には、重箱の隅をつつくような項目の数々とともに、予想をはるかに超える額が記載されていた。金銭の前に人情などまやかしである。食い下がるエネルギーもなく先方の言い値を支払う。スマホ1つで銀行振込ができる良い時代である。

 

 

某日

 youtuberの東海オンエアの動画でメンバーが、めいめいアプリなどで曲を作ってみる回をみる。

 曲を作った経験がない方がほとんどの中、アプリなどを使ってだれでも作曲という行為ができるということ、なんとか各自がこしらえた曲に対し、バカにしたりするようなことは一切なく、素直に感想を言い合っていることなど、いい動画だなあと思いながら眺める。自分はただこれをずっと続けているだけだなという気持ちに。なによりみな楽しそうにしているのがよい。

 一方で考えさせられたのが一点。MPC的なソフトで作曲したメンバーの作品が、制作過程を説明したところ、「要するに盗作?」と言った旨の指摘を受け、彼の作品のみミュートされてしまうのである。

 非親告罪の対象となる要件は満たしてはいないが、著作権侵害であることに変わりはなく、その指摘は間違っているとは言えない。さらに有名youtuberを狙う揚げ足取りの過激さも考慮すると、彼らが著作権面でグレーな領域に踏み込むメリットはない。

 違法/合法、ダサい/カッコいい、みんなやってる/やってない…いろんなレイヤーの議論はあるが、うやむやにしないことこそが自分へのけじめではあるとずっと考えていて、またそれに向き合ういいきっかけになったわけである。

 

某日

 楽曲を制作した、エルメスのwebプロモーションサイトがローンチされる。公開の連絡をもらったときにちょうどバーミヤンでチャーハンを食っていたため、レンゲを片手に内容を確認することに。

 大元のクライアントはフランスの人々であるらしいが、海の向こうの彼らは、このチャーハンを食ったら美味いと思うのだろうか。499円の晩飯と、それにゼロを3つ付けたくらいの価格の嗜好品のプロモーション。幅は広ければ広いほうがいい。

 

某日

 年内のイベントは全部断るつもりでいたが、お世話になった人の誘いは何個か受けて、そのうちの1つがラウンジネオのスーさんからのものである。

 

 人生で出たイベントの中で印象深いものを上げろと言われたら、真っ先にあげるのは、5年も続いたネオの周年イベントの第一回、2014年の"家-yeah-"である。

 まともなリリースもしておらず、自分の曲を知る客もろくにいない中、gladメインのタイムテーブルにぶち込まれ、なぜかウケて盛り上がってしまった光景はなかなかに忘れられるものではない。大げさではなく、自分の音楽が多数の人間に影響を与えうるという実感を初めて持ったのはこの日であろう。

 ブッキングしたトレッキーフタツキくんにしろ、スーさんにしろ、東京でのイベント出演のたいした実績はおろか、ハコとの縁すらない自分にぶち込んだのは、リスクテイクそのものである(その前日に京都でもライブをしたが、客は片手で数えられるほどであった)。

  音楽好きのような顔をして、規模感や付いてる客の数のみで判断をしてくるような人は多い。リスクを取り、アクトそのものを見てくれる人には頭が上がらない。

 最後のセイメイタイメイのメガミックスでハチャメチャになっているネオのフロアを眺めながら、いたく感動してしまった次第。ネオの店長お疲れ様でした。これからもよろしくお願いします。

 

 

某日

 届いたレトリカを読みながら、プラットフォーム以外何も残らない状態について考える。

 ある日youtubespotifyappleの類、配信プラットフォーム企業が一夜にして全て爆散するようなことがあったときに、そこにしかなかった録音物たちは、その時点でこの世では聴けない状態になるわけである。

 マスターデータさえあればいくらでも再アップロード可能なわけであるし、それは大した問題ではない、と考えることもできるし、一方で、だからこそレコードやCDみたいな、フィジカルな形で作品を残すべき、という話をする人もいるであろう。

 "音楽を聴くこともできる物体"としての録音メディアまでを作品とするのか、どんな形であれ誰かに聴かれた時点で、もうすでに作品として成立しているとするのか、自分はどっちなんだろう、としばらく考えたが、未だにはっきりと答えが出せないでいる。

 ライブでの体験共有もいいが、本質的には一人ミックスダウンされた音源を聴く行為が好きである。それなのに、その行為を自分はどのような形でするのが一番しっくりくるのか、はたまた、自分の作品がどのような形で聴かれるのが一番健康的なのかは、未だによくわからない。しばらくは考え続けないといけない。

 

12月某日

 トーフビーツリリパで年内イベント納め。

 先輩のトーフビーツと後輩のパソコン音楽クラブ、多大な影響を現在進行形で受けている二組と、こういった形で年末を迎えられるのは幸せである。やっていく上で直面する世知辛さみたいなものばかり目立ってくるが、やはり夢は広がりんぐしていると思わずにはいられない。音楽的にも、人間的にも、自分にはまだ改善の余地というか、伸びしろみたいなものがあるから頑張らないといけない。そういう気持ちが出てきただけでも、2018年は御の字ということにしたい。

 

 体重が10kg近く落ち、目に見えてやつれた夏から考えると、引っ越しも落ち着き、健やかに暮らしている風ではある。とはいえ、調子の悪さは否めない。そして、調子の悪さを盾にサボったり、大事なことをなあなあにしてしまっている自覚もあり、それが悩みの種でもある。

 「結局なんとかすんのは自分なんだよな、誰も助けてくんねえし…」などと考える日々であるが、いざ自分の人生を振り返ってみると、なるほど本当に困っている人を救った記憶などさっぱりないのである。情けなさすぎて笑えてくる。"情けは人の為ならず"、深い!

 

(年内に書くつもりが年を越してしまいました。2019年もよろしくお願いいたします。)