むだい

 kindleを購入して以来割と電子書籍を買うようになったが、一方でいまだに紙の本も買っている。気に入った本を紙で、というわけではなく完全にその都度の気分である。が、物理的な圧というのはなかなかなもので、リビングに未読の本を放置していると、なんとなく読もうという気分が湧いてくる。積まれた書籍はさながらパチンコの保留玉のようであり、自分はそれにある種の心地よさを感じるのである。

 一方で、例えば音楽のサブスクサービスにある膨大な未聴の音楽に対して、保留玉的なポジティブな感情があるかというと、不思議なことにそんなにない。こんなにも音楽に興味があるにも関わらずである。SNSもそうで、いまや無限のコミュニケーションにもはやポジティブな印象はない。こんなにも人間に興味があるにも関わらず!

 最近は「伏せられたカード」という比喩を自分はよく使う。音楽、本、知らない土地、出会ったことない人といった、知らないものというのは伏せられたカードである。つまるところ、近年のテクノロジーは伏せられたカードの供給を過多にしただけで、我々のめくりキャパは驚くほどへぼいという話である。

 おれたちは大してめくれない、だからこそめくり方こそ個性である。願わくば、夢が広がりんぐ♩と思いながらめくりたいものであるので、そのコツを探すわけである。

 そういう意味で、サラリーマンでなくなったここ最近は、人生でも最もめくりまくっている期間であるといってよい。最近はもはやめくり疲れを起こしつつある。

 

某日

 セカンドロイアル20周年イベント。"セカロイの感じ"というのは自分の音楽嗜好に非常に大きな影響を与えたが、それはいまこうやって改めてみてもぼんやりとしている。インディロックの7インチをただ頭からケツまでかけてカットインする、ややチャラいダンスミュージックをかける、4つ打ちマナーでディスコやハウスを繋ぐ、国内インディがアンセムとして使われる……など自分の基礎になった部分は多いが、いま思うと、上手くは言えないが、どれも若干ヘンテコな手触りがある。その手触りは全てセカロイのリリースに反映されているわけではなく、パーティ特有な部分が多々ある。そのヘンテコな手触りに何度も感動させられた結果、部分的かつ、ささやかに継承したのが今の自分であるが、あまりにセカロイのパーティがやっていなかったので、そのことすらすっかり忘れていたのである。

 朝になると馴染みの面々はみなへべれけである。ホームカミングスの面々と喋りながら京都の街を歩いているとどうしても学生時代を思い出してしまう。早起き亭のうどんを食いながらコンコスの太一さんとライブ象の話をする。横でツナと幽コミのpayaくんが話を聞いている。道路の前で老人たちがラジオ体操を第3まできっちりやりきっている。フリーズドライされたいつかの京都をお湯で戻して食っているような気分であるが、懐古というわけではなく、食うたびに少しずつ、いろんなものが更新され、前に進んでいると感じる。

 

某日

 セカロイのへべれけさを引きずったまま大阪ミルラリへ。謎のやる気によって全編自作のアニソンブートの謎セットを披露。ガビガビの状態で抽出された田村ゆかりさんのボーカルでしか震えない魂がある。早見沙織さんと曲を作ってから、一応自分もアニソン作曲者の枠に片足突っ込んでしまったわけであるので、こういうギリギリの遊びをいつまで続けられるのだろう……などと考えてしまったりもする。

 自分が普段行くようなイベントと比べるとアニクラの熱量というのはもはや別競技である。それなりにアニメはわかると思っていたが、それは完全に驕りで、本当にアンセムとして使われている曲が半分もわからない。ときどきイサゲンに解説を求めると優しく説明してくれる。「これは〇〇が舞台で…」ときどき飛び出す"本質アニメ"という言葉が気に入ってしまい、やたら頭の中にぐるぐると回っていた。一万いいねより一番いいね、覇権アニメより本質アニメ……

 サンドリオンのオタクとサンドリオンの話をしたり、ケビンスのオタクとケビンスの話をしたり、近年のなろう系の動向を聞いたり、神戸以西のアニクラシーンの話を聞いたりと、普段しないような話題を凄い勢いで摂取。本当にいろんなことを関わらせてもらった結果、それぞれの領域のオタクに認知されるのは役得としか言いようがない。

 楽しかったので打ち上げでも割と飲んでしまい、前日からの飲酒積算でレッドゾーンに入り帰りの電車で気絶。

 

某日

 大橋史さんが授業資料を見てほしい、というのでdiscordで話す。オーディオビジュアルの概説をする上で、しっかりドイツの表現主義らへんから話がはじまるあたりに、説明責任マンのイズムがみえる。着地の結論があまりに音楽的すぎて、「あまりに音楽的すぎますよ!」といった旨を伝えて終了。

 自分の創作物への説明責任をどこまでまっとうするかという意味での大橋さんのスタンスはかなりいくところまでいっている、みたいな話をヒデキックとした記憶がある(ヒデキックは大橋さんのHP制作を担当、その説明責任が発揮される構成になっている)。そういったスタンスに影響を受けて、自分も世間的には比較的説明責任まっとう寄りの派閥である。

 最近のSNSはどこまでいっても延々手癖でセッションしているみたいな感じがあり、腰を据えた知識の集積とは相性が良くないように思われる。映像tips紹介アカウントみたいなものは大体「イージングの違い!」みたいなガワの領域以上の話はしてくれない。ぽたぽた焼の裏のおばあちゃんの知恵袋を読むのは楽しいが、1000個覚えたところで体系とは無縁である。プレイヤーが少なく、大して需要もない領域で、少しでも体系化して積んでやろうというモチベーションは自分にもかなりある。

 

某日

 トーフさん中心に劇伴をやったドラマを見たいのに、今自分の住む京都の謎の戸建ては地デジエリア外という謎である。ケーブルテレビを引けば見れるということで手続きを進める。

 ケーブルテレビの工事〜契約フローはあまりにも老人向けにチューニングされており、パスワードは紙に書いてメモりましょうとか、機械の設定はスタッフに任せましょう的な運用ばかりでありあまり自分との相性は良くなかった。「パスワード…私は紙に書かなくてもいいです」みたいなことを言いながら、偏屈な正義マンと思われてんのかなーとか考えてやや落ち込む。デジタルリテラシー的な観点で、パスワードを書き下した紙を冷蔵庫に貼るのは論外と言えるが、パソコンの苦手な老人にその理屈を押し付けた時の実践的なメリットは本当にない。

 

某日

 zerotokyo出演のために新宿へ。早めに出たのに新幹線が雨で途中停車し、品川まで結局4時間近くかかってしまった。

 西山くんと喫茶店でお茶したのち会場へ。一時期は諸事情で新宿に来まくっていたわけであるが、今となってはほぼ縁のない街であり、深夜の歌舞伎町なんてずいぶん久しぶりである。

 楽屋は馴染みのメンバーばかりで、この馴染みの面々のまま会場だけがデカくなり続けているのは不思議な気分である。出番前に岡田さんと少し喋る。話したいことが山ほどある気がするのにいざ会うと当たり障りない感じの話ばかりしてしまっている気がする。自分の出番をまっとうしたのちは同窓会みたいな気持ちで過ごして朝。みんなで寿司を食う。fazerockさん文園さんマジで久しぶりに会った気がする。

 

某日

 お誘いをいただいていた美学校での初心者向けワークショップ(自作音源視聴会)。知らない人を集める、最初は硬い雰囲気であるが、音楽を聴き合っているうちにもはや自分の存在は不要になり、みんなが勝手に喋り出す、という一連の流れは本当に何度やっても感動的である。

 前に立って話すような場にわざわざ来てくれるような人は、自分にそれなりのリスペクトを払ってきてくれる人が多い。しかしそれはどこまでいっても、ネットとかのフィルターを通しての、多少ドラの乗った状態の上方修正された自分を見ているわけである。自分にできることは、そのイマジナリー有村に接近する努力をするだけである。

 なんなら本名も年齢も知らんが、作ってる曲だけはよく知っている、といった距離感の友人知人、という存在は自分の人生のブレイクスルーであるといってよい。週5で遊んでる、とかあいつのことはなんでも知ってますよ、的な濃度のコミュニケーションが得意でないことに気づいて以来の人生において、だれも誘うことなく友達に会いに行けるクラブというシステムと、創作物を介したふんわりコミュニティの2つは本当に素晴らしかったのである。週5で遊びたくないくせに週5で喋っても足りないくらいの喋りたさをもつ自分にとって、音楽作ってクラブに行く、という一連のフローを獲得したことはもう本当に僥倖としか言いようがなく、似たような人に似たような思いをしてほしいというのが今のモチベーションである。

 いい気分で打ち上げしたのち、タクシーで下北に行って安東のリリパ。安東の持つ本当のプロップスが出ている。zerotokyo〜美学校の連チャンからくるおれの疲れもかなり出ている。連泊のためホテルは歌舞伎町である。いまから歌舞伎町戻んのか….と始発前に死んだ顔で街を歩いていると、ネイビスのヒョンくんに声をかけられてまた驚く。センチメンタルになるぞ気をつけろ!

 

某日

 歌舞伎町最後の朝に無理やりスーツケースを閉めようした結果完全にファスナーがぶっ壊れる。大学生のときに買ったものなので大往生である。

 ファスナーの締まらないスーツケースを抱えて新宿のビックカメラへ。「ぶっ壊れたこれと似たやつください…」といって勧められたやつを購入。そのまま中身を入れ替えてもらう。万引きと勘違いされないように新品のスーツケースに"ビックカメラ"と繰り返し書かれた赤い帯を巻かれる。さっきまで商品であったものを我が物顔で自分の荷物を詰め転がしている。その様子を見ていると急にカゴダッシュ(おれが高校生のときに関西を賑わせた不良行為、カゴに商品を詰めてただダッシュで店を出る犯罪版ピンポンダッシュ)のことを思い出す。

 あの頃カゴダッシュをしていた、娯楽のために(法を冒してでも)スリルを求めていた層は、いまやスリルだけではなく金も必要で、特殊詐欺や闇バイトをしているわけであるから、世の中はえらいことになっている。

 

某日

 最近は「漁師的な態度」について考えさせられることが多い。漁師はアカデミックな視点のみでは海や魚を学ばない。経験の積み重ねで、悪天候や、危険な魚、毒への対処を学んでいく。全ては経験則の実践的な知識である。それに対して、学者的な視点があって、魚の学術的分類は〜みたいな話があるわけである。

 誤解を生む表現であるが、町の医者というのは漁師である。あくまで医学の研究者ではなく、経験の積み重ねで治療に向かう。薬ひとつとっても、薬学の研究者はin vivoでの薬効の発現の機構を解明するモチベーションがあるが、医者は基本的にそこに興味はない。

 この漁師-学者の関係を考えたときに、世間は漁師的なアプローチを肯定しがちであるなということを感じる機会が増えた。要するに、クラゲに刺されたときに、「このクラゲに刺されたら酢をかけて触手を取り除け」と素早く対処できる漁師は好意的に取られ、その神経毒の発現機構を理解する学者の価値は軽視されるという話である。未知のウイルスに立ち向かうためには漁師的な立場と学者的な立場の両輪が必須であるが、世間的には漁師偏重で、細かい理屈を適当にやるので、学者サイドを陰謀論で埋めて全体を見たりするわけである。

 こと音楽、さらに言うと音響エンジニアリングにおいてはさらにそうで、大きな体系が存在していないので、現場のエンジニアの漁師的な情報の価値が極めて大きい。価値が大きいが故により漁師偏重であるが、経験で勝負にならない分自分はもうちょっと学者的でありたいなーとか思ったりもする。