無題

 自粛生活はぬるっとはじまった。えもいえぬ手持ち無沙汰感から、デジマートやメルカリ、ヤフオクを巡回しては不要不急の安価なエフェクトペダルを買い漁る。在宅勤務の合間になる配達のチャイム、宅配の人の顔を見るや己の愚かさに気づくのであった。こんなことは極力やめないといけない。一瞬そう思ったが、この行為は果たして単純に社会悪と言い切れるのだろうか?

 かつて週末が来るたびにウーバーイーツで飯を頼んでいた引きこもり志向の強い自分、ふとTwitterで「ウーバーイーツを使うやつは搾取の精神性がある」的なツイート(細かい文言は記憶なし)をみかけた記憶が蘇る。

 「いやそんなことはないやろ…笑」とその時は思っていたが、コロナ禍中でしょうもない通販をする行為と、日常的にウーバーイーツを利用する感覚というのは悪い意味で地続きであるように感じてしまった。そこにはある種の浅ましさがあるように思える。

 だからといって、"社会への迷惑具合"なんてものが自明なものとして測れるとも思わない。週末に江ノ島に遊びにいくやつと、スーパーへ行くのも横着しAmazonで水をケース買いして宅配に運ばせるやつがいたとして、どっちがどのくらい迷惑だみたいな話なんていうのはしようがないのである。そしてその行為によって利益を得る人だっている。自分の行動がマクロに及ぼす影響の良し悪しなんてわかるわけもなく、結局は自己満足、もんやりとしたアティチュードの話にたどり着く。

 我々は役割分担をして社会を運営しているような形になっているわけであるが、この未知の事態、自分が役割を全うできているかを考えてしまう。考えれば考えるほど最近の暮らしは「穀潰し」でしかないような気がしてしまう。穀、というか毎日カレーである。そろそろ違う料理を作らないといけない。

 

3月某日

 セキトバに呼び出され近所の公園へ。ソーシャルディスタンスを保ったお悩み相談。天気が非常によく、外がえらく春めいていて、そんなことにも気がつかないような暮らしをしていたことを少し反省してしまった。

 先日のマゴチとの旅行もそうであるが、「困った時にどうやってヘルプを出すか?」みたいなのとはずっと考えていたことであった。究極、「適切にヘルプさえ出せれば友人たちが最終なんとかしてくれるわ」くらいに思えるようになりたいし、自分の友人にもそう思って欲しいものである。

 

3月某日

 ゆっくり音楽を聴く時間が増えたので、普段聴かないようなところにまで手が伸びる。なんとなくドリルミュージックを時間をかけて聴いていた。

 そもそも自分は、作品から作者の人となりに触れられると信じていて、さらにいうとその人となりに触れられるようになるためにリテラシーを獲得したいと願っているような人間である。「創作物」と「作者の人格」は切り離されるべきか?みたいなよくある問いに関してはもっぱら食傷気味で、切れるわけないやろ、としか思えないが、一方でハスリン具合を積極的に歌っていく類の音楽との向き合い方はいまだにはっきりしない。

 極端な環境に育った人間は自ずと自己を鑑みる機会が増えるわけで、おのずと創作物に強度がでる傾向はあると思うが、ぬるっとサラリーマン家庭で育った自分がいかにそういった強度を獲得できるか?というのは自分のテーマでもある。

 

3月某日

 ビンゴさんから京都メトロでの配信ライブ出演依頼。とはいえ世は週末の自粛要請が前日金曜の20時にでるような狂った状態でもあり、自宅のある大阪から京都までの電車移動も憚られるので、「行政側からの自粛要請が出ておらず、かつギリギリ(前日〜3日前)まで告知をしない方針であれば行けると思います」といった旨の返事をする。

 返事をしておきながら、これからクラブからの配信が乱立するであろう時に、リアルイベントの代替、下位互換としてただやることに関していまいち煮えきらない感じを覚えていた。

 秋葉原MOGRA先導で行われていたMU2020にえらく感動してしまったという事実も頭の片隅にあった。配信の乱立、と言う誰もが思いつく課題には”クラブ間でユニオンして一つのイベントにする”と言うアプローチ、ドネーションの方法や利益分配など、やはり感動の裏にはよく気の行き届いた仕組みがある。

 暇さも相まってオンラインで雑談を重ねる果てに、「ライブはワンオペ別録」、「メインは副音声のガヤ」、「”みんなで一緒に見ている感”のあるフォーマット(イロモネアや相席食堂のイメージ)」という骨子が決まった。前身イベントの名前が「スクリューパイルドライバー」であったため、適当に「ブレーンバスター」と名付けた。Googleにそう打ち込むと、サジェストに”死亡”と出てきて笑えた。

 何もしていないのに「これは面白くなるぞ」といったような根拠なき共通認識を得て就寝。久しぶりにポジティブなトーンで話している自分に驚いてしまった。キツいニュースばかりであり、調子は少しずつ悪くなる。少しずつであるため自分の調子の悪さにも気が付きづらい。こんなことになる前の自分の”普段の感じ”なんてものはもうすっかり忘れてしまった。

 

3月某日

 京都メトロでライブ収録。ほぼ誰もいない神宮丸太町の駅、ほぼ誰もいないメトロ、無人空間にむけて放たれる音楽・・・。ゾンビ映画の導入のような気分になり、「この動画を皆さんが見ていると言うことは・・・」といったメタ的な動画をふざけて撮影しておいた。ゾンビ映画ではないので自分は死んではいない。ライブ収録後に打ち上げの類や食事にいく訳でもなく、淡白な進行であったが、不思議と元気になったような気がしていた。

 

4月某日

 7都道府県に緊急事態宣言が出た。先日撮影した「この動画を皆さんが見ていると言うことは・・・」から始まるふざけた告知動画を公開したが、結果として想定よりも世の中はバッドな状態になっていた訳である。

 音楽関係のベニューのクラウドファンディングが次々と立ち上がる様子を見ながら、全員は助からないだろうな、といった暗雲たる気持ちになる。この状態を"来るべき淘汰"であると捉え、勝ち上がるチャンスだ、とする考えもあるようであるが、自分は到底そんな好戦的な気持ちにはなれそうにない。

 

 4月某日

 ブレーンバスター当日、 比較的好意的に受け入れられたのと、目標である収益20万を達成できたので安堵。初回ボーナス感はあり、この調子でずっと続けられるものだとは思っていない。コロナ禍がこの先もずるずる続いたとして、ピンチはチャンス、と言い切れるほど自分はポジティブではないが、怪我の功名みたいなものは確実にある。

 あとピアノ男はいつだっておれたちに勇気をくれるのであった。

 

 

 

 

 家から出ず、生活リズムもグズグズ、思い出されるは音楽制作と言う趣味を獲得する前の大学生活であった。最近もしばらくは音楽を作る気力もいまいちわかず、いたずらに時間を浪費していたが、環境に慣れたのか、徐々に活力を取り戻しつつある。

 コロナが無かった頃の感じがもはやあまり思い出せないのと同様に、この今の感じもまた思い出せなくなるのであろう。

 そんなこともあって、せっかくだしなんか書いておくか、と普段よりこまめにこれを書いているが、改めて自分が日記というフォーマットが好きであることに気づいた。結論を出す必要もなく、意見を提示する必要もない。起こったことと、それに対して感じたことのペアがただ並んでいるだけである。そのペアを並べていくのは、自分が好きなものを並べて眺めている時の気持ちと少し似ているように思う。あとで自分が読む用に書いているが、人が読んでも良いことにしている、そのくらいの感じである。

 新譜の制作もようやく再開した。この際なので、何も考えずに、できたらそのまま無邪気に出すつもりことに決めた。今のこの感じは、意識せずとも勝手に反映されるであろう。