某日
自転車のホイールのスポークが折れたので交換。なんとなく1パーツ交換すると他も触りたくなり、気分転換にハンドルやらペダル、ブレーキやらもネットで買って付け替え。
工具箱からペダルレンチやワイヤーカッターやらを引っ張り出している際、なんでこんな使用頻度の低いものを自分で所有しているんだという気分になる。汎用性の高い一般的なレンチの類ならともかく、それにしか使えないような工具達。
自転車屋に頼めば10分で終わるようなことをわざわざ専用工具を買ってまで自分でやるのは性格上の問題である。自身のこの気質を最近はあまりよく思っていない。
パソコンをBTOで買う行為に対して、生粋の自作ユーザのモチベーションはなんなのか?IKEAで机を買えばいいようなところをわざわざホームセンターで板買ってくるのはなぜ?
もはや値段的なメリットはあまりなく、この手の質問に対する回答はは、だいたい「思い通りのサイズやスペックにできるから…」というカスタマイズ性の観点か、「作ることそれ自身が楽しくてやってるんですよ」みたいな趣味性みたいな方向に持っていかれがちである。しかし自分はいまいちそのどちらにもハマらない気がする。
しばらくいろいろ考えて、一番しっくりきたのは、「己への戒め」であったが、なかなかに大袈裟で笑える。
某日
Swimの7"が発売。曲を作ったのは2019年、しかしながら音楽というのは寝かせたところで鮮度が落ちるような類のものではない(周りの状況はどんどんかわってしまうが)。
イラストをお願いした坂内拓氏、結局ご好意によりジャケットや盤面のデザインもご担当いただき頭が上がらず。自分が依頼していなかったら発生していない作品がこうやって手元にあるというありがたさ。
坂内氏、過去のドローイングなどをみても広角、引きの構図がとにかく多く、人はいてもポートレート的なフォーカスがなされているわけではない、客観的に思索に耽るような視座が私は何より好きである。
子供の頃、ぼーっとしていることを指摘されることが多かったが、だいぶ改善された今でもその気はまだ残っているように思える。視界はぼんやり、思案ははっきり。フォーカスしないこともまた別の何かへのフォーカス。
某日
公式に窓口を開いているわけでもないが、海外の方からレコードやCDなどが欲しいとわざわざメールをもらうことは割とあり、その都度発送をしている。
最近はコロナの影響でEMSなどが使えない地域が増え、郵便局の窓口レベルの人が海外への物流の最新状況を常に把握しきれているわけでもないので、正解がよくわからないまま毎度追跡できない国際小包などで送るわけであり、だいたい忘れた頃に到着し、受け取ってもらえた際は律儀に到着した旨と感想などを送ってくれたりする。
応援のメッセージであったり、到着したレコードの写真であったりが届くたびに、外国の見知らぬ人間に物を頼むような人間、流石だな……と思うと同時に、このコロナ禍シチュエーションは全世界共通のものであるわけで、みなあんじょうやって欲しいな〜としみじみ。友達は皆元気であってほしい。音楽聞いてもらって、レコードまで送ったんだからそいつはもう友達認定してしまっていいでしょう。会社には友達がいない、かたやこのガバガバ判定…
某日
近頃、広告関連で作ったものの世に出なかった制作が多い。それはコロナ禍特有の無慈悲な案件バラしであったり、自分の力不足であったりするわけである。
そんななか世に出た仕事の一つ、先方が追加した掛け声の主があきおくん(おでん屋そのとおり)であることを電話口で伝えられ謎にほっこり。
某日
ゴールデンウイークだというのに、全てのことに対してやる気がでず。今日に始まったことではなくここのところずっとである。仕事はなんとかやりつつ、特に向上心を持って制作をすることも、あとは脳死でゲームをしたりするだけである。
げんなりするようなニュースばかりであるが、信用されるには信用からはじめるしかなく、ギリギリまでは世の善意を信じたい性分で、世の中も国も政府もクソ、自己責任でやっていくわ、とはなかなかなれず。脳内に流れ続けるのはおれの人生のテーマソング(1)であるSummer, Highland Falls、いつだって"they’re the only times I’ve ever known"の精神。
某日
無気力のよき相棒といえばNetflixであるが、最近の話題作のクリフハンガーっぷりには目を見張るものがある。いい歳こいてマクドナルドばかり食っていることからもわかるように、自分は自制の効かない人間であるから、強い引きの展開の前に停止ボタンを押すにはエネルギーがいる。
究極パチンコ的な脳ハックも好きではあるが、過激資本社会において、熟練のハウスDJのようにじっくり上げるテレビシリーズを作りたかったらどうすればいいのかみたいなことはいつも考えてしまう。離脱率的なKPIで評価し、コントロールされるものを質の向上と捉えるのであれば、それは人間の脳みそを馬鹿にしすぎている。
某日
大阪のコロナでの1日の死者数が大体学校1クラス分とのニュース。ここのところ救急車の音がやたらと気になるようになった。一日中救急車が走り回っているような感覚。しかしながら普段からそうだったのか、コロナの影響で増えたのかはわからない。
さまざまな物事におけるビフォー・アフターというのは、よほど意識して記録でもしておかないと、雰囲気や思い込みのウエイトが大きくなってしまう。
せっかくなので自分の曲を1stから順に聴き直す。珍しいことではなくしょっちゅうしていることである。当時のことをなんとなく思い出すことはできても、そのときどの程度の解像度で音楽を作っていたかなどは、やはりさっぱり見当もつかない。
某日
もはや申し込んでいたことすら忘れていた電工2種、音楽制作に対してすらやる気が出ないのに学科試験の対策などできるわけがなく、試しに前日に過去問を解いたところ完全に雲行きが怪しく、結局深夜から朝まで勉強。
昼まで寝たのちに電車に乗り試験会場の阪大豊中キャンパスへ。平時だったら面倒にしか思えない駅から大学への坂道、明確な用事での外出があまりにも久しぶりであったのと、天候の良さなどで何故か感動的なものに感じられてしまった。
工業高校の生徒の集団から自分の親くらいの世代まで受験者は様々である。それぞれにそれぞれの人生があるのだな、などと考えているうちに試験。
試験時間は2時間。1時間ほどで解きおわり、さっさと退出してもよかったところ、妙に頭がスッキリしていたのでそのまま物思いに耽りもう1時間。
木々や、そして青空よ…と思いながらまた坂を下り、石橋駅ナカのカフェで自己採点。問題なさそうだったので、amazonで実技練習用の資材を購入、youtubeの検索欄に「電工2種 実技」と入力。
某日
急にやる気が出たのでデモを並べてサンクラにまとめて非公開アップロード。それを聴きながら仕事をし、仕事を終えたら煮たり焼いたりしてまたアップロードする日々を開始。そういえば確かに毎回こんなことをしていたな、とまるでひと事のよう。
某日
長谷川白紙がスカパラのライブにゲストで出るという告知を見かけてインターネットで検索したところ、来週大阪のフェスティバルホールでやるというのでその場でチケットを購入。
なんとなく次週に出かける用事があるだけで心身の調子が良い。「ライブ行くのが生き甲斐!ライブを楽しみに日々生活しています!」みたいな人に対して、そんなことあるか?みたいなことを思ってしまったりもするが、実際そんなことはあるのである。
スカパラの盤石の演奏と、長谷川白紙のまだまだ才能の末脚を残している感じのコントラスト。長谷川くんをこの規模の会場で見るのも初めてである。というかコロナ関係なくホール規模の音楽イベントに行く機会はあまり多くはない。
久しぶりの音楽イベントになんとなく気分は晴れ、帰り道「ああ確かにこんな感じだったな…」みたいなことを考える。ああこんな感じだったな案件は積もり積もっているはずであるが、世が平和になり、それが再び湧いて出てくるまでは思い出すこともできないのである。