無題

 気づけば人生で一番長く住んだ街が京都になってしまった。三代住んで初めて京都人になれるみたいな話もあるが、自分は元々大学進学でここに来ただけであり、地元ヅラをするつもりも別にない。そもそも転勤族の家庭に生まれた自分にとっては明確な地元意識すらもあやふやで、土地に対してのアイデンティティが宙に浮いてしまっているのである。

 中学2年生のテスト期間、明るい時間にいきなり父が会社から帰ってきて、ベッドに倒れ込むやいなや「釧路や・・・」と嘆いていた時の様子を自分はあまりにも鮮明覚えている。それ以来父は単身赴任になった。そしてそのことは、家族における悪い意味でのターニングポイントになったのである。

 自分の人生はどうも父の逆張りみたいな部分が多く、絶対に自分の住む場所を自分で決めたいという変なこだわりがある。会社の都合で(場合によっては望んでいない)土地に否応なく行かされ、息子が大人になる過程を見ることすら許されなかったことの理不尽さみたいなものに対して妙な強い抵抗を感じているのである。

 この京都という土地は、自分が人生で初めて自分の意思で住んだ街である。今も、特にいなければならない強い理由がないが、自分の意思で住んでいる。昔、パソコン音楽クラブに頼まれて書いたコラムにて京都を出る時の心情を書いていたので今読み返してみるが、当時はなんとなく地元みたいなものを手に入れることに憧れがあったようである。今はどちらかというと、手に入らない強い”地元意識”の獲得に対してはどこか割り切っていて、オールが自分の手にあることを重視しているように思う。自分で選べていればどこでもいい。と言いつつ、京都を出るつもりは今のところない。

 

某日

 サヌキナオヤさんの個展に行く。自分は絵や写真の構図においてやたらとテレなのかワイドなのかを気にしてしまう節があり、特に人物が入ってくるものであると、ポートレートみがありすぎるとどうも苦手なのである(自分の今のアー写も信じられないくらい遠い)。サヌキさんの絵にはよく人間が登場するが、寄り過ぎている事はあまりなく、それを的にしたり、時には越える形で、妙に中距離を描いていることが多い。そうやって景色を見ている人なんだと思い、いつも嬉しくなる。挨拶したのち、ちょっとだけ”京都で活動してますよ感”をどれくらい出すか、みたいな話になる。

 

三月某日

 トーフさんから連絡があり丸太町の交差点へ。びっくりドンキーと下のとんかつやを勘違いしていたらしい。どこも混んでいて結局とんかつ。tofubeatsレアグルーヴTONKATSU KUITAIZE(2009)は幾度となくリマスターされているのである。

 メトロでTTTB。色々あって朝方にトーフさんとB2Bをする珍しい展開。そして色々あってメトロから出られず、ずいぶん遅くなってから帰宅。

 

某日

 京都タワーの地下でDJ。一般のお客さんが過半数を占めるような場で音楽をかけるのは楽しい。トラックメイカーもDJも本質的には裏方業務の要素を多くはらむ。気の散りやすい自分にとって、5分も目を離せば内容が追えなくなる映画のようなフォーマットよりも、ぼーっとしていても置いていかれないエンタメであるという点で音楽は向いている。

 

某日

 自分の出来事に対しての自分の感想を持つ。これはわかりやすく、かつ他人に奪われようがないので、大事にすべきである。日記が良いのは、常にそうであるからである。問題は他人の出来事と、他人の感想にどう向き合うかである。最近のインターネットは大体が常にそうである。

 センセーショナルな、特定の他人の出来事に対しての、代表的な意見、みたいなものには疲れてしまう。普通に暮らしていたら、めいめいの人生のトピックはバラバラであるべきであるから、みんなが同じ話をしているというのはそもそも不自然な状態なので、是正すべきと常々思っている。自分にとっての、自然なバラバラ、というのを目指す方策が、音楽を作ったり、日記を書いたりすることである。

 しかしながら世はそもそもそういったバラバラを求めていないと痛感する場面が多い。昨日見た月9ドラマの話を次の日にみんなでする、みたいな機能が常に求められている。ネットフリックスの話題作で盛り上がりたい人間に、私的な出来事について日記を書いてくださいよ!とか音楽を作りましょうよ!みたいにいうことは、余計なお世話のように感じられるので憚られる。しかしそうあるべきであるとも思っている。それが今の悩みである。

 

某日

 阿佐ヶ谷ドリフトで店長海太の誕生日を祝うイベント。ドリフトは若いお客さんが多い。面白いパーティを催すのはいつだって難しいが、海太はそのへんいい感じにやっているので、店長業が向いているんだろうなと思う。終わった後コーラスプラッシュに飲みに行こうと誘われるが、疲れていたのでさっさとホテルに戻って寝てしまった。

 

4月某日

 テクニクスカフェでトークイベント。ホムカミ福富と1時間くらいレコードについてトーク。自ずと学生時代の話になるので、過去を振り返る羽目になる。トークの最中、二十歳ごろまでの自分は「玄人でありたい」というキモい自意識に苦しめられていて、過剰な玄人像によって自分の首を絞めていたことを思い出すのである。

 音楽好きを名乗る以上、十二分なリスニング量があるべきで、当然のように家にたくさんのレコードがあり、当然のように楽器が弾けて、作曲の知識があり・・・そこまで言って初めて音楽が好きなことを他人に自称しても良く、そうでないなら知識だけある童貞のエロ博士のようなものである、という誤った呪いを己に課しており、高校の時にはギターの練習をしていたがそのことは友人には言わず、文化祭でバンドやろうぜ!みたいなノリを冷笑し、大学入学時は自己表現をしている人を、「あ、アートの感じすかw」と小馬鹿にするといった救いようのない感じであった。福富をはじめとする、京都での良き出会いによって、(彼らが直接的に自分になにかをしたわけではないが、)正しく音楽を楽しめるようになったわけである。しかしそのキモい自意識ドリブンの努力が今の自分の礎になっているのも事実であるからまさに人生という感じである。

 初めて買ったレコードの話になる。「記憶が正しければ”Teenage Fanclub - Bandwagonesque”であるはずだが、家で見つけられなかった」という話をしたら、福富が「有村んちに行った時に借りパクした」と言い出して、その10年前の記憶がまざまざと蘇って来たのである。記憶とのリンクは物理メディアの魅力である。みんなレコードを買おう!(ちなみにその時”オノマトペ大臣 - 街の踊り”も合わせてパクられている)

 

某日

 バイクに乗っている最中にどうやら財布を落としてしまったようである。財布に免許が入っているわけであるからもうバイクも乗れず、とぼとぼ歩いて帰る。ありがたいことに交番に届いていたが、車に轢かれまくり、全てのカードがぐにゃぐにゃになってしまっていて何もできず。

 

某日

 川辺くんが弾き語りのライブを京都でやりたいというのでイベントを企画。まどまミュージアムという古民家を借りて開催。自分はSP404での謎のライブをしてやんわりすべる。誘った幽体コミュニケーションズと川辺くんのライブはロケーションとの相性も非常によく良いイベントになった。ありがとうございます。

 イベント後に姉妹という居酒屋で飲む。幽体のメンバーも全員来てくれてゆっくり喋る。それぞれの年齢と活動領域が絶妙に被っていないため面白かった。スマホを使ってATMから金が下ろせることが判明し、財布が機能停止している懸念も解消。川辺くんがそのまま家に泊まりにきたのでさらにだらだら喋り、一瞬ウエストハーレムに顔を出したのちに就寝。

 

5月某日

 EOUがいきなり家に来る。「ネオボッサ作りましょう」というので、意味がわからないままおれが思うネオボッサを適当に作って遊ぶ。近所の愛想が悪すぎることで知られるベトナム料理屋に晩飯を食いに行くが、想像をさらに越える愛想の悪さに2人で昇天。

 

某日

 大学でGOING UNDER GROUNDのレコーディングをするというので遊びに行く。あまり見たことがないくらい楽しそうに録りの作業が進んでいく。松本素生さんの歌が入った瞬間に一気に曲が完成してしまう様子に感動。自分は”曲のようなもの”がどこかを境に、はっきりと”曲”になる瞬間が本当に好きである。それはDTMの作業過程でも楽器のRECでも変わらない、フォーマットを問わない本質的なよさである。

 録り終わった後は雑談。メジャーからインディーズに戻るまでの過程の話をしてくれる。話の内容が個人的にあまりに熱く、地元の友達とずっとバンドを続けているということがいかにすごいかをまざまざと感じてしまった。話を踏まえると、録音した”爆音ノ四半世紀”という曲の歌詞が迫力を持って立ち上がってくる。他人と同じ船に乗りリスクを共有する、みたいな状態を自分は頑なに避けている節があり、だからこそそうしている人間に強く憧れてしまう。

 

某日

 WATARUくんに呼ばれ名古屋でイベント出演。日中にボートレースで大勝したBatsuくんに降りかかるイソップ童話のような出来事、イベント後にゲラゲラ笑いながらカレーうどんを食う。

 

某日

 イベント出演のため仙台へ。仙台とは妙に相性がいい。後にやたら会うようになる東北大学オーディオ研究部の皆さんらともここで。朝に行った中華では奇妙なグルーヴがあったように思う。来てくれた人はありがとうございます。

 翌日は観光がてら松島クルーズ。眠過ぎてところどころで気絶。

 

6月某日

 京大文学部にて、メディア文化学の講義。専門の化学分野で低空飛行した自分がミュージシャンとして母校で講義するとは珍奇すぎる人生である。ほうぼうへの悪口をカットした授業資料はこちら

 授業後半、「今振り返って大学時代にこうしたら良かったと思っていた事はありますか?」と聞かれ「もっと”音楽作ってます”と胸張って生活すれば良かったなーと思います」と答えたわけである。意図せずに、自分の口から勢いよく出たその言葉は意外であり、そしてめちゃくちゃ本心であった。前述の「玄人でありたい」というキモい自意識により人に音楽を作っていることを言うのが恥ずかしく、ネット以外の大学生活でほぼ音楽の話をしなかったことが自分の後悔なのである。振り返っても、学内ではマイナー趣味を大手を振って謳歌するサークルがたくさんあったので、さっさとそうすれば良かったのである。自主制作において、熟達している事は全く必要要件ではない。他人を小馬鹿にすることが一番よくない。下手くそは歌を歌うべきで、キモいポエムは書くべきである。とにかく他人の目を気にせず、自分の中から、文章や絵や音楽などで、何かを取り出す行為を身につけることが人生の助けになる、ということが、自分の一番言いたいことである。

 

某日

 パレスチナ問題に対しての意見がネットを飛び交っていて、ガザへの連帯の表明だったり、イスラエルをサポートするような企業の商品の不買だったりするわけである。

 我々のような音楽制作者にとってはイスラエル本社のwaves社の製品に対しての使用を差し控えるみたいなことも言っている人もいて、そういう考え方もあって然るべきようには思う。

 とは言っても、我々が憎むべきは国ではなく、軍事攻撃を持ってして何かを為そうというポリシーや、それを以て行動する人間であろう。生まれる国は選べないが、ポリシーは(その環境が許す程度に)個人に委ねられるわけである。イスラエルという括り自体に向かって石を投げるのは、レイシズムポリシーそのものであるように思う。

 ついでに問われているのは、仮に(もちろんそんな事はありえないが)完全に正確な客観情報が手に入れられる状況下で、善悪の判断が自分にできるかという事である。頭が空っぽの状態でデータだけを渡されて、自分の信じる正しさみたいなものを元に、与する方針を決められるだけの脳みそが自分に備わっているか?と考えると恐ろしい。有識者の意見を聞こう、じゃあ誰が有識者なのか?無知な我々は有識者もまともに選べない。じゃあ野生の勘で・・・とするにも外れるのが勘である。関係ない国の関係ない争いに気を揉む必要はあるのか?みたいな意見もあるが、考えの射程はそのまま備えである。物理的にも精神的にも、短距離の出来事だけしか考えない状態というのは、なかなかに脆弱である。

 そんなことを考えながら、パレスチナのアーティストの音楽を探して聴いていたりしたが、創作物に触れるのは、その個人のポリシーに触れる事であるので、ガワのレッテルで判断せずに、個々人に目をむける良い意識づけになると思っている。それが綺麗事であったとしても!