無題

 自分のやっていることを鑑みると、「今日はいい天気だった」みたいなレベルのポジティブな感情を、さまざまな方法でリワインドしているだけのような気がしている。自分が過去に獲得したいい感じの気分を、なんらかの手段でもう一度目の前に立ち上がらせたいと思ってしまうのである。日記を書く、音楽を作る、人と話す、どれを取ってもそうである。

 思い出したいことも、部活の大会で優勝した、とか恋人にプロポーズした、とかおじいちゃんが死んだ、みたいな大きな感情ではなく、もう少し直接的な出来事から離れた、ちょっとしたムードみたいなものを取り扱いたいという志向があり、それはますます強くなってきている。日常の些細な機微を愛していこうね、みたいなのとも少し違っているから説明が難しい。自分は、アリーナで素晴らしいライブをみた感動も、朝カーテンを開けていい天気だった時の気分の良さも、同じレイヤーで捉えているところがある。極端な話、親族が死んでも一切心が動かないかもしれないし、スーパーで野菜を見て感動で泣いてしまうかもしれない、出来事の重大さと心の振れ幅の大きさは(そりゃ多少は相関はあるが)そんなに関係がない、といったところである。取り扱うのはちょっとした出来事からくるムード、フィーリングであるが、やる方は本気である。

 もんやりとしたものをいちいち思い出すために、人生を賭していると思うと、まあそれは人に説明するのも難しいし、作る音楽が変なのも仕方がないなとも思う。(そういえば"Recollect the Feeling"なんてアルバムも出してました。)

 

8月某日

 奈良でDJ。途中で奈良ネバーランドの店長レオナさんとヤックルと雑居ビルの飲み屋へ。食べ物メニューはポテチのみ、底辺ウイスキー界の至宝こと凛〜KING WHISKY〜(名前がかっこいい、すごい安い、すごいまずいの芸術的3拍子が揃った銘柄)で割られたどうしようもないハイボールと共に。朝、ヤックルと交互にひたすらPerfumeをかけてフィニッシュ。

 

某日

 パソコン音楽クラブの5作目、『Love Flutter』リリパを見にO-EASTへ。総合的にいい曲を作ることと、ダンスミュージックの機能的な意味でいい音にすることは思ったほど関係がないが、彼らは今回かなり真面目に後者の方にも向き合っているように思えていて、大箱だとそういった部分がよりよくわかる。

 自分は割と機能的な意味でのいい音について考えることを放棄している部分がある。具体的な例を出すならば、キック鳴りをよくする、的なブラッシュアップに意図的に時間を割いていない、といった感じである。そして、そういったスタンスで到達できるスケール感の上限にも薄々気がついていて、パソコン音楽クラブがそこをちゃんとやって、着々と規模をデカくしている様子を見ると、自分が言い訳と共にやるべきことをサボっているような気持ちにもなったりする。UKのスタイルへの接近も、UK、というよりも機能的な良さへの志向、みたいなのが先立っているのかなーとか思ったり。今回も相当よかったが、パソコン音楽クラブには、もっといい音で、いい曲を作れる伸び代がまだまだあると感じてしまった。未来明るいな〜。

 夜は東間屋でのアフターパーティでDJ。機能的な曲と、そうではない曲を半分ずつくらいかける。個人的には東間屋的なベニューが一番東京を感じる。

 

某日

 Perfumeの結成25周年、メジャーデビュー20周年を記念した展覧会 PerfumeDiscoGraphy会場で行われるPerfume ONLY MIX DJイベント「DISCO!DISCO!DISCO!」に出演。

 何やら台風がヤバそうなので、前日に東京に移動しようと試みるが、夕方に京都駅に着くと新幹線がもうすでに動いておらず、なおをもって手遅れの感がある。どうにでもなれと思いながらなんとなくサンダーバードに乗る。車内はどうしても今日中に東京に辿り着きたいイライラしたビジネスマンの類で溢れており、当然のように席はない。連結部のデッキでボーっとする。車内では「本日中の東京への電車はありません」的な内容のアナウンスが繰り返されており、人ごとのように気の毒だなあと思う。

 車内で検索した結果、金沢-都内の夜行バスは運行しているようなので、北陸新幹線で金沢に移動し、夜行バスに乗る。初めての金沢がこんな形になるとは。イレギュラーな事態に落ち着かず、一睡もできずまま東京駅。することがないのでPerfumeの曲を聴き続ける。活動期間が自分の10代〜30歳に至る過程とかぶっているので、まるで走馬灯のようである。love the worldとかの転調する曲を使えば全曲キー合わせでミックスできるんじゃないかと画策し、暇なのでテスト勉強のようにPerfumeの曲のキーを暗記する。ここで初めてパーフェクトスター・パーフェクトスタイルをはじめとする一部の楽曲のピッチがA=440Hzからズレていることに気が付く。2mixのタイムストレッチ!うれしー。

 企画ものの特殊なケースとはいえ、小西康陽さんと前後でDJすることになるとは。Perfume楽曲縛りということであったが、小西さんが「Perfumeにカバーして欲しい曲をかけます」と言って”東京は夜の7時”をプレイ。その様子を眺めながら、ずるいな〜と思いつつ、なんていい曲なんだと改めて感じる。

 

9月某日

 神戸RINKAITENで周年パーティ。理由は不明であるが、RINKAITENの楽屋での会話は妙にグルーヴする傾向にあるように思う。10周年おめでとうございます。

 翌日、起床したのちimaiさんとパーゴルとでカレーを食う。こちらもグルーヴのある店で、インド帰りのパーゴルもにっこり。

 

9月某日

 京都メトロでイベント。yuigotがPAS TASTAのアルバム制作期間中ということでへとへとな感じであった。が、パスタのメンバーと個別に会うときは皆へとへとなイメージがあり、売れっ子は忙しいというだけかもしれない。

 楽器を使ってくれ、ということで謎にエレアコの演奏を組み込んだライブセットをする。うまくいっていたのかはよくわからない。見てくれた人はありがとうございました。

 終わった後に皆でびっくりドンキーに行く。びっくりドンキーに行ったことがないメンバーが過半数を占め、そんなことがあるのかよと思いながら、「びっくりドンキーにはヤバいくらいでかい観音開きのメニューがある」と説明したが、店内に入ると全席タッチパネル注文になっていて、ただ嘘をついただけに男に成り下がる。へとへとであったように思えたyuigotは元気にビジュアル系バンドと往年のGacktの話をすごい勢いでし続けていた。

 

某日

 京都大学熊野寮のお祭り、狂奏祭に出演。パーゴルと共にインドに行っていたSUSHIBOYSと共に出演。

 会場の室温上昇により全ての機器が停止した昨年の反省を生かし今年は無事完走・・・とは言ったものの、あいも変わらず自分の出番終了時点でマジで大丈夫かという温度で、その後のSUSHIBOYSは大丈夫なのかと心配になる。が、そこはさすが数多の現場を乗り越えてきたラッパーとしての地肩を遺憾無く発揮しステージをやり切っており、流石だなーと思う。灼熱の会場内をアヒルボートが舞う。イレギュラーなシチュエーションに強いかどうか、という部分を自分は結構気にしていて、その手の強さを持っている人間を自分は妙に尊敬してしまう。

 深夜はウエストハーレムでDJ。友達ばっかで嬉しい。コツコツと集めていたビッグビートっぽブレイクスをいっぱいかけました。

 

某日

 4回目の神保町サウンドシェア。potluck lubをはじめてからかれこれ6年も経っており、曲が作っているそこらへんの人を集めて、指導やアドバイスをするわけでもなくただおしゃべりするという行為による変なノウハウの蓄積を感じている。

 人はそれぞれ違うので、全く違う音楽を聴いて過ごすし、真面目に創作をすると皆バラバラになって然るべきなのであるが、実際は割と同じような曲を聴いて、似通ったアウトプットをしてしまう傾向にある。これは結局、上述の”機能的な意味でのいい音”を目指すことと似ている。クラブで良く鳴るキックを突き詰めると、物理現象が伴う以上(多様性は維持されるとはいえ)ある程度の正解、みたいなものに選択肢が収斂していってしまうのは必然であるからである。要するに、社会的な視点で創作物をブラッシュアップすると、どうしても競技化の側面が出てくるし、こうすべき、みたいな方針がたってしまうのである。例えば、JPOPにおけるAメロBメロサビ、といった構成は、ただ適当に決められたマナーではなく、そのジャンルにおいてそうするとよくなるから、という集合知で帰納的にそうなっているわけである。

 機能的なキックは素晴らしいが、皆が機能的なキックを求めるわけがないし、JPOPは素晴らしいが、万人にサビが必要なはずはない。社会的な良し悪しとは切り離された、作品とその作り手のセットを一つでも多く見ることを通して、自分の作品と、自分のセットを相対的に見ることで、有り体に言うとそれぞれの”個性”を発見したい。

 そう言った理由で、自分の催す会の中では最大公約数を取るような”よくする”行為から遠ざかって、なるべく好き勝手することを重視したいと思っている。アドバイスをする、となると、「サビをもっと豪華にした方ががいいんじゃないですかね」と言った社会的な良し悪しからの指摘になってしまい、バラバラloverとしては本意ではない。だから建て付け上、良くも悪くも指導の場になり得ない。

 ちゃんと期待に漏れず、神保町では皆良し悪しを比べるにはバラバラすぎるものを持ってきてくれるので嬉しい。今回もクラブミュージックの人もいれば、ハープの弾き語りの空気録音の人もいた。クラブミュージックとハープの弾き語りの良し悪しを比較することが野暮なのは誰でもわかることである。そして、クラブミュージックと並べて初めて、自分がなぜハープを選び、さらにそれを持って弾き語りをしたのかを考えるのは楽しいのである。

 

10月某日

 新しくできたばかりのうめきた公園でライブ。先月の流れでピロピロとエレアコも弾いた。悪くはないが、単純に練習が足りないように思う。こんな広場でおれの訳のわからない音楽や演奏を皆が耳にするのは面白い。3rdアルバムのテーマが公園であったりもするように、自分は公園の感じが好きであることを再確認した次第である。

 

10月某日

 二週連続のうめきた公園、potluck lab.企画。

 そこらへんで耳にするBGMというのは、すごい人が作ったクオリティの高いポップスや、評価の定まった有名なものが大半を占めるわけであるので、そこらへんのすごいわけではない人間が作った、よくわからない曲を聴く機会などは基本的にあまりない。この企画をやらないかと誘われた時点では、バラバラ状態を愛する見地から、こんな大阪の一等地で、市井の人間の自作曲を垂れ流せるなんて愉快だなあ、くらいな無邪気さであった。

 音楽専用のスペースではないのと、オープンエアーな空間での音響のノウハウがあまりないため、当日の朝セッティングをするまでは、配置や、機材の過不足や、スピーカーのカバー範囲など、インフラ関連のことが頭がいっぱいであった。早朝からの作業でなんとか準備を終えひと段落したのち、応募曲を取りまとめ、段取りを確認していた最中に、想定していない不安に襲われてしまったのである。

 曲を募った時点では例に漏れず曲調やジャンルなどの指定を意図的にしていなかったので、種々様々なものが届く。HyperFlip的なアプローチでBPMが早く、意図的に音が割ってありアグレッシブに仕上げてあるもの、帯域が埋まっているレンジの広いEDM的なもの、低音にフォーカスした大きなベースミュージック、攻撃的なサウンドのインダストリアルなトラック、アニソン的な作法にのっとったポップスを含む。そういった曲たちを、音楽を聴きにきたわけでもない、公園で散歩しているだけの老人や、公園でお茶をしているだけの子連れの夫婦などが聴いたときに、例えばその老人が気分を害したり、小さい子供が泣き出して収集がつかなくなったりすることが予想される。

 音楽というメディアの特徴上、空気がある限り伝播していくので、「嫌なら聴くな」と耳を塞ぎにいくわけにもいかない。自分が主体となっている音楽再生行為がネガティブなリアクションのトリガーになる事実とどう折り合いをつければいいのか、いざやるぞというこのタイミングになって自分の中で整理がつかなくなってしまったのである。昼飯を食いながらストーンズ太郎に相談をする。要するに、おれが”公共の場で無作為に音楽を流す”ことのリスクに対しての事前見積もりが甘く、なめていて、直前でビビり始めたという状態である。

 ファッションで例えるなら、奇抜だったり、極端にエロかったりする格好をも皆が自由にできて、それぞれが尊重し合い、特に気にしない状態が理想だとして、それを棚に上げ、プラクティカルな状況を考えると、女児服を着た中年男性がウロウロしていたり、乳が強調されたアニメキャラのコスプレを見たときに、不快に感じる人がいるのは事実である。 プリキュアコスのおっさんは平均的感性においてはキモいので、公園では流石にそれはやめておきましょうねといった、法とは別の、暗にある社会通念のラインによる圧力があり、たとえしたい格好があったとしても、それに則って、我慢してラインの中で服を選ばされるのが現実である。

 その手のTPOを考えましょうね、というスタンスは妥当な態度のように見えるが、その”社会通念のライン”というのはそのまま差別や偏見の問題と繋がっている。女児服を着たい中年男性を、社会不適合の犯罪者予備軍としてみなす、という行動様式は、そのまま相似形でマイノリティ差別の構造になる。ここで今回の音楽イベントにおいての”社会通念のライン”はどこなんだ、という話になる。意味不明な曲を世間は聴かなさすぎる、聴きやがれ!と言い切りたい気持ちと、発生しうる無関係の来場者の不快さとの天秤である。

 結論として、楽曲に差別的なものや、反社会的な行動を扇動するような類なものがあるわけではないこと、音は遮蔽されているわけではないが、イベントの区画自体は仕切られていること、度を超えてイカれたサウンドの楽曲があるわけではないことを鑑みて、特に流す楽曲の選別などはしないことにした。ゲストDJで呼んでいた岡田さんに同じ話をすると、「どのみちお前は堂々しているべきだ、モジモジしててもいいことは一個もない」と言われる。ここにいたのが太郎と岡田さんでよかったなと思う。

 事前の杞憂に対して、イベント自体は首尾よく進行し、みんなの曲を聴く時間も、その後のDJも楽しいだけであった。立地もありクラブにはあまりいかないけど様子を見に行こっかな、くらいの知人友人も来てくれて、集客も十分、機材トラブルもなくイベントの趣旨や雰囲気をうめきたのデペロッパーや企画の人も好意的に捉えてもらえて一安心。最後はやたらとピースフルなムードで終焉。岡田さんのDJを持ってしていい感じの雰囲気にする能力は改めて本当にすごいと思う。イベントをする立場で考えたときに、絶対にいい感じにしたいときにオカダダを呼びたくなる気持ちがわかる。事後のクレームなども特になし。

 セルフでの機材撤収も経て、クタクタな状態で太郎とトンカツを食いながら反省会をする。  なんでこの手の懸念と今まで向き合わずに済んでいたかというと、これまでやってきた会場が、物理的に遮蔽された、ゾーニングされた空間であったからであることに改めて気が付く。クラブは自由な空間だ、などと言われることがあるが、クラブの自由さは、ドアを開けさせるという関門を持ってして、「入ってきたのはお前なんやからあとは自己責任な」というエクスキューズとともにあるのであるのだとつくづく感じる。

 自分の思う自由さ、というのは、このドアを開ける、出ていく、といった行為に対してのオープンさであるという考えになりつつある。オシャレなイベントにキモオタが入ってきたとして、空間がオシャレじゃなくなるからキモオタ出ていけ、というのは間違っている。それは悪しき排斥である。ゾーニングされた空間で、めいめいの思う良さを目指し自由にやる。そこにいるべきかはドアの開け閉めを持ってして個々人が判断する。くるもの拒まず、去るもの追わず。同時に趣味嗜好の相容れない人間がドアを開け、ドカドカ侵入して「やってることがキモいんじゃ!」というのも野暮であり、客としての悪しき態度と言える。ここで、こういった外野の批判を野暮と言い切るためには、閉じている必要がある。駅の美少女キャラ広告がキモい、みたいな物言いが起こるのは、ひらけた場所に置いてあるからである。会の参加条件に、”ドアを開けさせる”セクションを設定することの大事さを思い知ったわけである。

 これ以降自分のゾーニング志向の加速も感じる。ネットのエロバナーみたいな論外なものから、駅での美少女キャラ広告くらいのものまで、”社会通念のライン”は公の側で現状よりキツめに設定して、そのキツさで弾かれるものが好きな人間はゾーニングでやっていこう、という考えが自分の中で強まっている。コミケの日でも、ビッグサイトにつくまでコスプレすんなよ、という類のレギュレーションこそが、おれたちの生命線になる。とにかくライン設定が肝要である。

 肝要なのは分かったが、ライン設定を意思を持って明確にするのは難しい。クラブではOKでうめきた公園では推奨されない音楽ってなんなのか、をルールでロジカルに仕分けするのは(そんなものが本当にあるのかも含めて)現実的に難しいからである。音楽は空間を満たし、人々のフィールに影響する。これは素晴らしいことだし、自分が音楽を好きな理由であるが、同時に恐ろしいことでもある。

 そういった意味で、今回たまたま問題が発生しなかっただけで、リスクとのよき折衷法が思いついているわけではないので、potluck labを今後物理的に開けた場所でやるかどうかは鋭意検討中です。究極の理想状態が、「そこらへんの人間のよくわからない音楽が世に溢れていて、それを聴いてもいい意味で気にならず、尊重し合える状態である」ことは変わらないが、じゃあ現実的な落とし所はどこなのか。この件に関するご意見も(できればオフラインで)募集しています。